オクシモ論

新矢の雑記。

「可哀想」

「可哀想だね」

こう声をかけられた時に、どう感じるか?

相手の声のトーンによるだろう。冗談風に言えば大して気にならないかもしれないが、深刻そうに言われれば余計自分が惨めに思えてしまうのではなかろうか。少なくとも、私は言った相手が誰であろうともそう感じる。きっと相手は特に深い意図もなく言っているのだろうが、どこか見下されて、どこか他人事だと思っているように聞こえてしまう。

私はよく祖母から「可哀想」と言われた。親におもちゃを買ってもらえなくて泣いていた時にも言われたし、ペットが亡くなって悲しんでいた時にも言われた。きっと軽い気持ちで言っているのだろう。きっと慰めようとして言っているのだろう。私の気持ちに寄り添おうしているのだろう。でも、この可哀想と言う言葉一つであっという間に私と祖母の間に距離が生まれる感じがする。かえって自分の惨めさを相手によって再確認させられている気分になる。

祖母のことは好きだったが、どうしてもこの言葉だけは好きになれなかったし、この言葉を平気で使う祖母が理解できなかった。

 

また、ちょっとしたことですぐに「可哀想〜」と言う友人がいる。私が物を少し雑に扱っただけで「可哀想だよ」と物に同情しだすし、私が軽い自虐として言ったものに対しても「可哀想に」とやたらと憐れんでくる。でもそこには祖母に感じるような温かみはなく、ただ私に罪悪感や惨めな気持ちを植え付けるだけだった。

 

可哀想という言葉は、同情しているように見せかけながらも、相手を惨めさを再認識させる卑怯な言葉だ。こういう言葉でありながら、結構な人が多用しているのを見ると、大してそんなこと気にしていない人が多いのかなとも思う。

私は絶対に可哀想という言葉を冗談以外では使わないと決めている。似たような意味の言葉で置き換えたりしているが、「可哀想」を一語で、どの場面においても通用するように置換できる単語は存在しないのではないかと気づいた。多分「可哀想」は「やばい」とは「すごい」とかに匹敵するレベルの多義語なのだろう。だから多くの人が使っているのも仕方がないのかもしれない。でも、私は意地でも使わない。そう決めている。